燭台製作

冬期間の仕事と言えば、鍛冶工房での燭台製作がある。かれこれ10年程になる。鋼板や丸棒,角材やパイプを熱してハンマーで叩く。いわゆる鍛造と云う方法でパーツを作っていって溶接で接合して形を作る。その後、熱処理をして蜜蝋でコーティングする、それを磨き上げ、黒光りした味わいのある燭台に仕上げるのである。

今年のデザインは今までとは違い、単純なフォルムの中に力強さが感じられる本格派、玄人受けのするような作品となった。これに蜜蝋キャンドルを灯し、その炎の揺らめきを見つめていると遠い昔のことが懐かしく思い起こされる。

昨日17日は、阪神大震災から20年という節目を迎えた、竹灯籠に灯をともし、手を合わせる姿がメディアで繰り返し紹介されていました。20年たった今でも大切な人を失った悲しみは変わらないと話す女性・・・・。何年経とうが悲しみは癒えることはない、遺族の悲しみや苦しみを改めて知ると共に、その中でも懸命に日々の生活を送っている人達に、東日本大震災の被災者の20年後を重ねてしまい、思い出すことで故人をいとおしむことが出来るようになっていて欲しいと願わずにおられませんでした。

修理最終日

修理4日目もペンキ塗りで一日が終わってしまいました。昨日、アクリル板が届かず完成が今日にずれ込んでしまいました。

朝11時頃、アクリル板を宮古まで取りに行った港さんが来て早速仕事に取り掛かりました。電話BOX本体の三面のサイズに合わせアクリル板を切断し、嵌め込んでいきます。周りを桟で固定し午前中は終了いたしました。

午後には、遠野まごころネットの5人が駆けつけ取り付けた桟にペンキ塗りをするという具合で、戦力アップした作業は手分けして進みました。しかし、この日午後の気温はどんどん下がり手も足も冷たく、鼻水も垂れっぱなしでした。完成した時点での寒暖計は-4度を指していました。

本当にボランティアの皆さんには感謝しています。これ程の厳しい条件の中で復元した「風の電話」。使用してくれる皆さんにもその想いは必ず伝わると思います。そして一日でも早いグリーフワークからの回復を願って止みません。

また、「風の電話倒壊」に全国からお見舞いを寄せて下さった皆さんにも大変ご心配をおかけ致しました、お陰さまで完全復旧することが出来ました。ブログ上ですが改めて御礼を述べさせて頂きます。ありがとうございました。

修理3日目

風の電話修理も、残す作業はアクリル板はめ込み前の塗装と屋根の割れたスレートの交換だけとなった。

修理3日目の今日は、新しく作った扉とBOX本体の塗装、ペンキ塗りです。

風もあまりなく、何とか一人でもいけそうです。まず全体にサンドペーパをかけ塗装の剥げた部分を取り除き正面を滑らかにします。しかし、これが大変な作業であり、また仕上がりの出来ばえに影響する大事な作業です。ペンキはムラをなくすため2度塗りをしました。したがって出来ばえは皆さんのはげましに答えられるものになったと思います。

どうぞ今度来た時に笑ってやって下さい。

今回の事件で、全国の皆様方より修理の募金をしたいとの問い合わせが多くありましたがボランティアの皆様のお陰さまで、僅かな材料代で済みそうですのでどうか心配なさらないようお願いいたします。尚、ベルガーディア鯨山では活動支援金の協力をお願いしています。

銀行口座:ゆうちょ銀行
店  番:838
口座番号:1938776 (普通預金)
名  義:ベルガーディア鯨山 佐々木 格(ササキ イタル)

修理2日目

2日目、港さんは自宅のほうで午前中かけて扉の製作をしました。

前日には「これ程立派には作れないから簡単にそれらしく作るよ」と言っていましたが、私には解っていました。職人という者はそうではないと言うことを。

もし誰かが作った物を修理することになったら、絶対それに劣るものは作りたくは無く、同等かもしくはそれ以上の物を作ると対抗心を燃やすはずと妻に話していました。午後になり港さんが扉を持ってきたとき、言ったとおりだろうと得意顔になりました。扉の格子を簡単に角材で作ると言っていたのに出来てきた物はルーターで角がきれいに化粧の面取りされており前のものと同じにように加工してありました。

後は天候を見てペンキ塗りをしアクリル板のくるの待ちセットする。屋根のスレートを葺き替えすれば完全です。1月15日ごろの完成となるでしょう。

昨日、港さんの行動を宮沢賢治の理想とした生き方にたとえ紹介しましたが、風の電話の倒壊を発見したのが2015年1月8日。賢治が1925年(大正14年)1月5日に花巻から夜行列車にのり翌早朝八戸に着き、更に久慈まで列車でそれから発動機船で宮古まで行きます。宮古からは1月8日午前0時発の三陸汽船で山田湾船着場に1月8日朝2時30分に着き、下船する。

・それから船越四十八坂、浪板の牧場を通る浜街道を歩いて大槌に来て小鎚川の河原で休む。その時「旅程幻想」の詩を詠んでいます。

・山田か大槌で下船したかは定かでないが「旅程幻想」で賢治はいくつもの牧場を越えてきたと詠んでいる。又、大槌の白石船着場で下船したとすると小鎚川の河原は余りにも近すぎる。

解りましたか。90年の時を経て1月8日宮沢賢治さんが大槌に関係を持ったことになります。一昨年ベルガーディア鯨山では「宮澤賢治童話展」を開催し、期間中の5月3日には賢治記念館の牛崎服館長を招いてチェロと朗読のコンサートを行いました。昨年12月からは大槌中央公民館で「宮沢賢治イーハトーヴォと三陸海岸」を開催中です。1月10日には宮沢賢治詩の朗読会が開催され感動を新たにしました。さらに期間中に賢治に関する講演会を開催し、大槌宮沢賢治研究会(仮称)の発足を目指しております。そこの活動を通じて大槌の地に賢治の詩碑を二基建立したいと計画しています。

今回の出来事は、単なるこじつけの偶然ではなく時空を超えた賢治さんに対する想いが通じたのではないかと感じております・・・風の電話ですね!!

修理1日目

1月10日9時ちょうどに修理作業はスタートしました。港建築の社長、港さんは壊れた電話BOXを手際よく使える部分と捨てる部分を切断分離し、木片をビス止めしたり、更に削ったりしながら元の形に修復していきます。

私と遠野まごころネットの二人は港棟梁の指示に従いドリルで穴あけや工具を渡したり、寒い中鼻水をすすりながらお手伝いしました。

後で港さんの奥さんにお聞きしたのですが、風の電話倒壊を聞き、「11日の大震災の月命日には訪ねて来る人もあろうからなんとか本体を立ち上げるところまでやりたい」と言って様子を見に来たのだそうです。ありがたいことです。

震災後、宮澤賢治の雨にもマケズの詩が各地で詠まれる機会が多くなりました。これは震災で家も財産も失ったけれど、逆境にもかかわらず負けないと言う気持ちと、だれか困っている人がいれば行って手を貸してやるという行動にあらわす大切さを言っているのだと思います。港さんは「そんなことは知らないよ」と云うかもしれませんが賢治が理想とする生き方を自然体でしているのかもしれません。

今日1日で本体を立上げ、屋根を乗せることができました。明日は扉の製作と屋根のスレートの修繕に入ります。側のガラスはまだ日数がかかりますが、明日の3時ぐらいには電話、ノート、その他のものはセットを終え使えるようにはしたいと思います。