大槌学園小学部の郊外特別活動 IN ベルガーディア鯨山

19日天候に恵まれ、子供達はやってきた。

一年生71名、先生7名、神奈川県相模原南ロータリー関係者9名、けん玉師1それに我々2名が加わり総勢100名がベルガーディアの「木ッ木の森」に歓声を響かせた。

「木ッ木の森」のハンモックで大騒ぎした後、けん玉師伊藤祐介氏野パフオーマンス。その後全員にけん玉がプレゼントされ子供達の体験と交流があった。子供達は数種類の技をこなせるまでになった。技を決めたときの得意そうな顔付き、学校ではなかなか見れない表情だと思う。

昼食後は、自由遊び時間で各自が好きなことをやっていたが滑車ロープが大人気だった。

タイヤがロープに食い込みスピードは出ないというより止まってしまうほどだったが滑り降り、滑車を引き上げる際も大変で、急な斜面を何人も手をつないで引っ張り、転び、土だらけになりながら乗りたい一心で頑張る姿こそ、集団での郊外活動の生きた勉強だと感じた。

しかし、子供達は、我々大人が想像出来ないような行動をとるもので、帰った後点検してみると驚かされることだらけだった。

浪板海岸に芝生の子供遊び場づくり

5月23日気温29.6℃,炎天下の中100人を超える人数が芝生張りに汗を流した。浪板プロジェクト主催の活動であるが芝生張りの指導を頼まれ指揮を執った。下準備に砕石を取り除き、黒土に入れ替えを業者に依頼したようだが、石だらけで石の除去からのスタートとなった。

下準備が一番大切なのだとほとんどの人数で土を掘り返し石取りをおこなつた。女性の中にはマニキヤをした素足にサンダル履きで張りきる人、万丈籠で土を篩いかけする人もいて男女協働の土方作業となつた。芝生張り、目地土いれ、芝生押さえの竹釘打ち等一連の作業で250平方メートルを約3時間あまりで完成させた。

その結果、出来ばえは写真のようにすばらしいものとなった。子供達がここで遊び、その思い出を大人になっても語りつがれる場所になって欲しいと願うばかりである。

風の電話にリンゴが?

東日本大震災から5回目の彼岸を迎えました。18日は私達も墓参りをしてきました。

釜石での用事を済ませ、夕方に帰宅して電話ボックス内の掃除、日めくり等一連の仕事をしようと扉を開けたとたん、赤と黄色のリンゴが目に飛び込んできました。誰が置いたのか、ノートをめくってみてもそれらしい記述はありません。5年目にして初めてのことで少々しんぱいになりました。

しかし、翌朝、こんどは花束がおかれていたのです。今までも早朝誰かが来た様子はあったのですが花束が置かれたのも初めてです。

風の電話を利用する人の心理として、人目を避ける傾向にあることは理解していました。

ですから出来るだけ「団体客、観光客には遠慮してほしい、本来、必要とする方がたが迷惑する」と言ってたのですが・・・・・これほど心を痛めている人がいたことを改めて思い知らされた気がします。5年目を迎え自分自身が震災当初の気持ちを維持出来ていないと気付かされた一件でした。

アンネのバラ「風の電話」に

アンネのバラは、第2次大戦中にユダヤ人強制収容所で亡くなった少女アンネ・フランクを悼み、ベルギーの育種家がつくった。

アンネの父オット・フランクが1972年、奈良県の牧師に贈ったのが日本でのルーツ。その後、京都府の元高校教諭が息子と栽培して全国各地に送り、広まった。

岐阜県には約30年前、ユネスコ協会を通じ、大野町のバラ農家青木宏達さんの元に苗1株がやってきた。「作り続けないと途絶えてしまう」。と青木さんは接木で年10本ほど育てている。

昨年、写真家三浦寛行さんが風の電話を訪れた際、「逆境に耐えたアンネゆかりのバラ」アンネのバラの話しを聴き、「大切な人を亡くして電話ボックスを訪れる人達を勇気づけられるのではないか」と思い三浦さんに仲介をお願いした。青木さんも「バラの花が、訪れる人々の癒しになればうれしい」と苗を三浦さんに託され、今回(15日)風の電話を訪れ、手渡されることになつた次第です。

皆さんの努力で又ひとつ、心の復興のキッカケとなるアイテムが揃ったことに深く感謝いたします。ありがとうございました!

燭台製作

冬期間の仕事と言えば、鍛冶工房での燭台製作がある。かれこれ10年程になる。鋼板や丸棒,角材やパイプを熱してハンマーで叩く。いわゆる鍛造と云う方法でパーツを作っていって溶接で接合して形を作る。その後、熱処理をして蜜蝋でコーティングする、それを磨き上げ、黒光りした味わいのある燭台に仕上げるのである。

今年のデザインは今までとは違い、単純なフォルムの中に力強さが感じられる本格派、玄人受けのするような作品となった。これに蜜蝋キャンドルを灯し、その炎の揺らめきを見つめていると遠い昔のことが懐かしく思い起こされる。

昨日17日は、阪神大震災から20年という節目を迎えた、竹灯籠に灯をともし、手を合わせる姿がメディアで繰り返し紹介されていました。20年たった今でも大切な人を失った悲しみは変わらないと話す女性・・・・。何年経とうが悲しみは癒えることはない、遺族の悲しみや苦しみを改めて知ると共に、その中でも懸命に日々の生活を送っている人達に、東日本大震災の被災者の20年後を重ねてしまい、思い出すことで故人をいとおしむことが出来るようになっていて欲しいと願わずにおられませんでした。