人間の持つ五感に見る、聞く、触る、食べる、嗅ぐ等は肉体上の認知器官を使って認識している。しかし、何時か何かの時に嗅いだ匂いとか味を思い出したり、既に亡くなりそこにはいない人の声や姿を感じたりする認識はどこでするのだろうか。
これは、肉体の認知器官で行う行為ではなく、心で感じるという行為になる。だからその場で味わったり匂いを嗅いだりは出来ない「心の対象」ということになる。
従って、心も認知器官だと考えることが出来る。人が癒しの感覚を得るためには、五感のほかにこの「感じる」という感覚が最も重要になってくる。
「風の電話」では他の認知器官と異なり特別な癒しを受け止めることができるという背景には、この「感じることが出来る」という点に注目しなければならない。「何も見えないけど電話の向こう側に相手がいるように感じる、何も聞こえないけど電話の向こう側に伝わっているよう感じる」このように心の癒しにとって最も重要な「感じる」という感覚は、人間の持つ感性と想像力で心がそう受け取っているということであり、何物にも代えられない心のメッセージなのだ。
それでは、ここで言う「心」私たちがよく口にする心というものは人の身体のどこにあってどんな形をしているのだろうか?
私たちは良く、「謂れ(いわれ)のない噂に心が傷ついた」とか、「信用していた者から裏切られ心が傷ついた」或いは、「大切な人を失い心が傷を負った」などと話すが、その「心」は外部からは見えないし、自分でもどこにあるのかもわからない。しかし、自分で心と言うものがあると自覚しているし、どんな人にも心は必ず存在しているものと思っている。
自分の身体の内部のどこかに存在するけれど自分でも良くわからない「心」
グリーフにより傷ついた自分のこの「心」を心理療法家と言われる外部の人間が治療するのだから難しさこの上ない。
何故なら、治療にあたる専門職の方々が立場の違う当事者を理解するため、当事者と周囲の人々との関係、価値観、生活状況や世界観等を訊ね、気持ちの分かち合いや信頼関係を築こうとするのだがなかなか出来ることではない。当事者が肝心なところで本心をさらけ出してくれるとは思えないからである。それが出来るぐらいならうつ病になるほど悩まないし苦しまないのではないだろうか。
以前、「風の電話」活動を始めて間もなく、あるお坊さんがお寺の境内に「風の電話」を設置したいので許可してくれないかと手紙で聞いてきたことがあった。理由を聞いてみると、坊さんに人生の悩み、苦しみの相談に人々が来るのだがなぜか肝心のところに来ると心を開かないのだと言い、だから「風の電話」「を置いて心の全てを話させるようにしたいのだということだった。その坊さんには、「私ごときがおこがましいのですがあなた自身が仏教でいうところの『徳』を積み、相談者が何でも話せるようになることが肝心ではないか、あなた自身が風の電話になることではないでしょうか」とお断りしたことがあった。
このように人の心の内奥を吐露させることは簡単ではないと言える。
心理学者の河合隼雄先生によれば、「心の傷を治すのは医者ではなく、当事者であって医者にできることは当事者が自分で治すのを見守り、助けることだけだ」と語っている。
つまり、「心の傷」を治すのはカウンセラーや医者ではなく当事者の「心」であって、カウンセラーにできることは、当事者が孤立しないよう寄り添い、安心して悲しみや苦しみの感情を出せる環境づくりをしつつ、当事者が自分で意識の向け換えが出来、再生するのを見守り続けることなのだ。
従って、心の傷の再生には、当事者が安心し自分の感情を思い切り吐き出す環境が必要なのだと考える。「吐き出せば呼吸と同じに吸わなければならない、吸って吐いての繰り返しが生きるということなのだ」と話す震災で連れ合いを亡くした友人の言葉を思い出す。
「風の電話」は、周囲から隔離され、秘密が守られ、言いたいことが言える自由が確保され、誰にも邪魔されず感情を思い切り発散させる機能を備え、自分で自分の心の傷を癒せるように、何時でも誰でも静かに待っている。