「風の電話」のある「場」のちから

「風の電話」と言うとメディア報道では、どうしても想いを伝える間もなく会えなくなった大切な人へ、電話線のつながっていない黒電話を握りしめ伝えられなかった想いを涙ながらに吐露するという感動の場面が取り上げられがちです。しかし、実際の「風の電話」の現場では、突然の災害、事故、自殺等で家族や友人を失い、電話ボックスまで辿り着きつきながらドアを開けて入れない人、開けて中に入れたけれど受話器を取れなかった人、伝えられなかった想いを長い時間話す人、受話器を持つたまま言葉を発せずただ涙を流す人等々、逢いたいのに会えない人に静かに向き合う人の姿が後を絶ちません。               「風の電話」は、本来自らの辛い過去や現在と向き合いながらも前を向いて生き、それらを乗り越えて未来に歩む姿にこそ目を向けられるべきものであり、悲しみの発露として又、メディア報道の「受け狙い」だけではその本質が見逃されると危惧するところ                           です。                           電話では、実際には話は出来ていませんが電話を終えた人たちは「電話の向こう側に伝わっているようだ」「相手を感じることが出来た」と語ります。本人にとっては本当に話せたように感じ気持ちが楽になり癒され、救われたと感じるならば、その人にとっては本当に話し合えたと同じ事になるのではないでしょうか。 私たち人間が、人間を超えるものを感じながら謙虚にそれを受け入れ、今は亡き死者に対して言葉で語りかけ、聞こえるはずのないものを感じ取る行為は、文学的でもあり信仰や祈りに通じるものがあると考えます。つまり、物事はその部分だけを切り取り良し悪しや役に立つ立たないを言うべきではなく、「電話線が繋がっていないのは意味がないとか、死んだ人と話ができるわけがない」と決めつけたりするのではなく、物事の背後にあることまでも想像力を働かせ想いを巡らす時、その意味のないことに価値が備わり物事の本質が見えてくると考えています。また、「風の電話」があるベルガーディア鯨山は、子供たち向けの「森の図書館」や遊び場「キッキの森」があり、「感性を育み、想像力を育てる」という「場」なのだというコンセプトを考慮に入れるならば、社会一般に伝わる「風の電話」が持つ一面と、その根幹にあるグリーフを抱えた人たちが未来を切り拓いていく姿勢を後押しする「場」なのだと理解されることを望むものです。