12月18日、映画「風の電話」特別先行試写会が大槌町文化交流センター(おしゃっち)多目的ホールでありました。東日本大震災で家族を失い一人になったハルは、広島の叔母さんと暮らすことになったが、叔母さんも病気で倒れてしまいます。自分だけなぜこんな悲痛を味わなくてはならないのか?。ハルの心は、これ以上の悲しみで心を押しつぶされないよう、何を見ても何に触れても何も感じない「無感動」「無感覚」「無関心」になっていきます。
この役は、監督が彼女しかいないと抜擢しただけあり、モト―ラ世理奈さんは演技でなく地ではないのかと思えるほど適役になっています。叔母さんが倒れた後、ハルは衝動的に家を飛び出し、故郷大槌に向かう旅に出ます。途中、様々な悲しみ苦しみを抱えた人たちに出会います、皆それぞれに問題を抱え悩んでいるのは自分だけではないことを知ります。映画の中で「お前が死んだら誰が家族のことを思い出すんだ」という森尾のセリフがあります。そうです、亡くなってもその人を知る人がいる限り魂は存在すると私も思います。誰も知る人がいなくなった時点で魂は解放される、生きている人との相対的対象だと考えています。
ハルは出会った人たちに背中を押され抱きしめられたりしながらようやく大槌に着きます。震災前家族と暮らし、今は基礎の後だけが残る我が家にたたずみ「ただいまー」「ただいまー」と呼びかけますが・・・返事はありません。高校生のハルにとってはつらい時が流れます。偶然に駅で会った少年が、交通事故で亡くなったお父さんと話をしに「風の電話」に行くというのでハルも一緒に行くことにし、ようやく「風の電話」にたどり着きます。
しかし、このあたりの描写が少し不自然に感じられる。一般的に私たちが何かを行ったり、見たり、聞いたりと行動を起こす前提となるのは、その対象となるものがそこにあることを知らなければなりません。それを知って初めて行って見たいとなるのではないだろうか?
秋鮭の回帰も、生まれ育った川に戻り産卵するという目的があって途中の困難に耐え故郷に帰ることが出来る。 ハルの場合、その必然性が描かれていなかった。偶然大槌駅で出会った少年について行ったという設定のためストーリーとしてのいきいき感や勢いみたいなものが不足したのではないかと感じました。
「風の電話」の癒しとその魅力は、そこを訪ねる熱意にあります。グリーフを抱え、自分の心にバリヤーを張り巡らし思考も混乱しそこから一歩も踏み出せずにいる状況から、「風の電話」のあることを知り自分も行ってみょうとする熱意にあるのです。地図にない田舎の、案内板もないわかり難い場所に途中何度も道を尋ね、ようやく辿り着く「風の電話」。どういう事かと言いますとこれは、米国の心理学会でいうところのマインドフルネス。日本の禅でいうところの瞑想状態になることを演出しています。
「風の電話」に行きたい。そして、想いのたけを伝えたいという気持ちに集中させることになります。ですから、電話で話し終えた後解放感と共に癒され救われたという感覚に満たされるのです。
諏訪監督は、旅で自分を見つめ直す。人は喪失を経験した時、それを受け止めてくれる場、信じられる「場」を求める。「旅は人の再生に欠かせない」と強調します。近年、若い人やインバウンドに四国八十八か所巡りが盛んらしいですが、自然や人と触れ合い、ただひたすら歩くことにより何か人生の道標みたいなものが見つかると言われています。ハルちゃんも旅の中で死ぬことよりも大事ななものを見つけたのでしょう。終盤の風の電話ボックスでの10分間は圧巻でした。ハルの今まで抑えていた感情が徐々にそして、静かに語られます。私たち見る側には自然の音、風の音、カエルやカモメ、虫の鳴き声が効果的に音楽の役割をはたしていました。
この映画は見て楽しむ娯楽映画ではなく、心で感じ、映画の深部にある私たちのラジカルな問題をつかみ取ることを促している映画だと思います。