豊かな人生とは?

 

都会に長いこと暮らし、仕事のリタィアを機に田舎暮らしを始める方はたまにある。私は、田舎暮らしの魅力を時間に捕らわれず手間、暇をかけることを楽しむ生活だと考え実践しています。

ヒト、モノ、カネ,ジカンをいかに効率的に使い、収益を上げるという考えは企業組織の考えであり、一個人の生活が同じように効率優先で営まれていることが「豊かさの実感がない」という人が増えている一つの原因ではないかと考えている。勿論、給料がこの30年上がらず逆に実質賃金が下がっているという問題もあるのだが・・・。

しかし、単的に言って現代では必要なものはお金を出せば何でも手に入り、お金さえ出せばすべて他人がやってくれます。自分は体ひとつ動かさず、汗のひとつもかく必要がない。このような生活は何かを求めるという目的は同じであってもそのプロセスが全く異なる。特に、自分自身の時間の経過における歴史がないから、その間に起きるだろう様々な苦労も問題もない。従って、それらを解決しょとする努力も必要としない。その結果として、身体の内から湧き上がってくるであろう感動のない日常生活にならざるを得ない。人は生きる上で「感動、感激を感じて生きる」ことが大切であり、それが人生を豊かにすると考えているがどうでしょうか。詳細は拙著「風の電話」シリーズを一読してください。きっと何かを感じ取ることができるでしょう。

 

 

 

あなたは考え、行動してきた通りの人になる

仏教に「因果の道理」という考え方がある。運命を行い(原因)の結果だとする考え方だが、私たちは希望をもって未来を見る時、その人生に対して肯定的であればある程「未来は決まっていない、運命など存在しない、自分の力で未来を切り開く」という想いを抱く。良い結果が出た時には、けっして運命だとは言わない。自分が頑張ったからだと言うだろう。

一方、「私たちは既に起こってしまった過去の出来事を悔いを持って見つめる時、あれは自分の人生に与えられた運命であった」という想いを抱く。ということは、運命というのは結果に対してだけ現れ、それも自分の意志と相容れない結果に対してのみそのように感じるのかも知れない。そして、それを運命であると受け入れるようになる。

自分の運命(結果)を良いものにするためには。原因にあたる行動が重要になる。アメリカの心理学者で哲学者のウィリアム・ジェームスは心が変われば行動が変わる。行動が変われば習慣が変わる。習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命が変わると語っている。仏教でも、心がけを変えると運命が変わると説き、洋の東西を問わず運命はあることを前提にし、自分の行動次第であるとしている。

だから、自分が考え行動した通りの人になると言える。大根の種をまけば大根がなり、人参にはならない。ヒマワリの種をまいてチューリップが咲くことはない。自分の「心がけ」ひとつ、なれないまでも近づくことは出来ると思っている。

 

「風の電話」と魂の存在

長い間、山の中で暮らし人間の言葉を話さない動植物と心の交流をしてきた体験から、亡くなられた方でも「死」というものの捉え方の視点を変えることで、想いを伝え交感・交流することは可能ではないだろうかと考えた。

生き物の生死は一つの線上で繋がっていて、生の延長線上に死があると考えた。亡くなり肉体が消滅したからと言ってその人間が消えていなくなったのではなく、死者として存在していると考えることができる。私たち人間は肉体を持つだけでなく、「感覚、知性、精神」などという意識体を持ち、「心」がそれ等をコントロールしている生命力(エネルギー)であると考える。

そう考えなければ「風の電話」の誕生はあり得なかった。愛する人が亡くなっても「風の電話」で想いを伝えることができる。死者と交感できるということは、生前肉体上の感覚器官を使って「見たり、聞いたり、触ったり」できるという五感の行為ではなく「感じる」という心の対象になり、死後も可能になると考えた。それは言葉で表すことは難しく、祈りとか信仰というものと共通するところがある。

生命力(エネルギー)は生きる力、元気であるのみでなく、心そのものでもある。心にパワーがあって初めて思考力も、生きる力も生まれてくる。しかし、その心は人間の身体のどこにあり、どんな形をしているのでしょうか、誰も分からない。生者にあるのが心で、死者になれば魂なのか?「魂=心」なのか、私にもわからない。誰も分からないからこそ「風の電話」で想いを伝え交感・交流し合うことができるのだろう。

それでは、死者の心「魂」は永遠に存在するのだろうか?私は、亡くなられた方を知る人がいる限りその魂は存在し、知る人がいなくなった時その魂も消滅するのではと考えている。

詳しくは拙著「風の電話と共に」を一読ください。

癒しの底流には祈りがある

今日も台湾から7人、香港から1人が「風の電話」を訪れている。今年に入り欧米や東アジヤの国々の訪問が目立つようである。もっとも、今、世界中に50か所を超す「風の電話」が作られている状況にあり、ロシアのウクライナ侵攻、トルコ、シリアの地震など世の中不穏な現状があり、悲しみを抱える人々が増えている。

それら、人々の悲しみを癒すには人の持つ五感(見る、聞く、触る、味わう、嗅ぐ)に”感じる”という感覚が加わって初めて癒されるという気持ちになる。この何かを感じる感情が大事であり、皆が持っている気持ちの動きであるがそれは、表に出し表現することは難しく、祈りに通じるものがある。

「風の電話」には、「何も聞こえないが相手に伝わっているようだ」「何も見えないが相手を感じる」と、”感じる”ことができるという大きな特徴がある。

「風の電話」を訪れる方は亡くなった大切な方に祈りを捧げることで癒されていると言えると考えている。

東日本大震災から12年

愛する家族を失ったその傷は、12年たった今もありありと存在し、この時期になると疼き悲しみを呼び覚ます。

特に、思い出に触れた時、回復した傷跡に触った時のように神経が傷つき無感覚になっている感じとも違う。むしろ、むき出しになった神経が空気にさらされ、大声で叫びたいような生々しさを伴い湧きおこる。

それは、今いる現実から飛び出したいような、また傷跡を何かに覆われることを待っているような複雑な感覚に囚われているようにも感じられる。

いづれにしても、自分の心を自由にするも、拘束するも自分自身の心の持ち方次第なのだと思う。