東日本大震災から10年を考える

東日本大震災から今年で10年がたち、時間的な経過として一つの節目を迎えたと捉えることが出来る。しかし、被災者はさまざまな問題を抱えており未だ苦しんでいる方も多い。特に、大切な人を失った悲しみは時間と共に癒えていくというものではなく、個々人の被災状況によってその受け止め方は大きく異なるだろう。

愛する家族を失ったその傷はいつもありありと存在している。その思い出に触れた時、回復した傷跡に触った時のような神経が傷つき、無感覚になっている感じとも違う。むしろ、むき出しになった神経が常に空気にさらされているような生々しさを伴いながら、何かで覆われるのを待っているような複雑な感覚に襲われている。その悲痛から回復するには長い時間がかるだろう。また、辛い期間を避けて通ることも出来ないだろう。メディア報道の騒ぎをよそに、被災地では普段の日々と変わらぬ静かに緩やかな、そういう10年なのだ。

つまり、「心の復興」に時間の区切りを押し付けることは出来ない。また、遺族は悲しみが簡単になくならなくても、焦らずゆっくりと時を待たなければならない。そして、悲しみを一人で抱え込まず周りの誰かと話す機会を持つことが大切になる。出来れば同じ境遇にある人達と話し合いの機会をつくることが、孤立させないためにも必要なことである。或いは、「風の電話」を訪れ、ボックス内の外部と遮断された空間で自分の想いを声に出して話すことや、思い切り感情を表出させることも心を解放させ癒しにつながるだろう。

「人には喪失後の世界に適応する力が備わっており、どれほどの辛いことがあったとしても最終的には生命力を再生する力を持っている」と心理療法家たちは言っているがどういうことなのか。具体的な説明は、見たことも聞いたこともない。

なぜなのか、10年を契機に考えてみた。仏教では、「諸行無常」という言葉があり、世の中のものは全て変わる」変化しないものはないとされています。と言うことは、人の命もいずれ死を迎える時がくる。つまり、人間というものは「人は死ぬ」ということを織り込み済みで人間はつくられている。そして、その悲しみを抱え絶望することもあるが、全ては創造主の理解の範囲内と考えなければ、愛する人たちの死に際しグリーフ(悲嘆)を抱えたとしても、最終的に生命力を再生できるという解釈ができないのである。

大丈夫!悲しみも、苦しみもいつまでも続かない。全てのものは変わる。楽しいことも必ず起きる。人間はそのように創られているのだから。

ローマ教皇と宮沢賢治の教えてくれるもの

今朝、今シーズン初めて雪が降りました。と言うより夜半のことであり寝ている間に降り、朝目覚めたら7,8㎝積もっていたのです。今の時期としては珍しい積雪です。今日は、雪にちなんで綺麗な話をと思います。

ローマ教皇フランシスコは、東日本大震災の1カ月後、ワシントン大聖堂で世界の宗教の代表者を集め、犠牲者の追悼と復興を祈念するミサを行い最後に宮沢賢治の「雨にも負けず」を朗読しました。

そのローマ教皇が昨年11月25日東京カテドラル聖マリア大聖堂にて、世界中で社会問題化している孤独、つまり「心の貧困」についてマザー・テレサの「孤独と誰からも愛されていないという感覚は最も残酷な形の貧困である」という言葉を引用して次のような話をしています。私たちにとって最も大切なことは「何を持っているか」や「何を得ることが出来るか」ではなく、誰と人生を共有できるかということに気付くべきだと話す。 つまり、「何のため生きるか」ではなく「誰のために生きるか」にフォーカスすべきだと言っています。教皇が訴えたかったのは、「他者のために」「他者と共に支え、支え合って」生きることの大切さです。   

教皇のスピーチから思い起こされるのは岩手が生んだ天才宮沢賢治のことです。賢治の信条は「誰か他人のために」でした。賢治は、毎晩寝る前に母親イチさんから言い聞かされたという「母の教え」がありました。母イチが何度も賢治に繰り返した言葉は「人というものは人に何かしてあげるために生まれてきたのです」という言葉でした。この様にして賢治は「利他精神」に基づく独自の価値観を築き上げていった。「自己犠牲」や「利他精神」は、賢治の沢山の作品を貫く大きなテーマであると言えます。それは、幼いころからの賢治の生き方そのものであり、「人のため自分は何が出来るか」「本当の幸せとは何か」ということを生涯考え続けたのでした。

何のために生きるか・・・・。東日本大震災では、生きたくても生きれなかった人が大勢います。そう言う事実があるということは「人の生死」は自分の意思とは関係のない力が作用していると考えることが出来ます。つまり「生きる」ということは生かされていると捉えるべきで、そう気付かされる時「誰か人のために」という「心のよりどころ」を生み出す生き方が出来るのではないでしょうか

では「死ぬ」ことは自分の意志で出来ると言えるだろうか。いや違う!失職し経済的に困窮したり」「愛する人を失いグリーフを抱える」などの状況にある人が、「誰も自分の辛さを解ってくれない」「気持ちを汲んでくれる人がいない」と孤立する。その結果として、現実の社会に生きづらさを感じ自分の命を絶つという経緯を考えれば、まわりとの人間関係の希薄さが命を絶つことにつながっている。いわゆる、他人との関わり方が作用して死を選択していると捉えることが出来る。つまり、死ぬことも自分の意志でなく、他人の関わりに影響されていると言える。

「生きる」と「生きている」は全然違うことであり、生きることは他のものとの関係で成り立つことです。自分と誰か、また何か。 生きることは誰かとつながることであり、誰かの役に立つことです。誰かとつながることで、生かされていると言い換えることが出来ます。人は皆、生まれて今まで一人で生きてきたという人はいません、必ず誰かとの関わりの中で生きています。生かされています。この事実を決して忘れないようにしなければならないと考えます。

しばらく振りのモノ作り

長年の懸案だった作業用道路の門扉を自作することにした。長い間ぐずぐずしていたのは間口が6,5mとバカでかいものとなること、また設置面が傾斜していること、見合う材料が手に入るか不透明なこと(田舎は手に入れにくい)等々。半ば、自分らしくもないブルっていたのだ。

それを作ろうと思い立ったのは、時間構わずの不法侵入者が多いからだった。人、鹿、タヌキ,キツネ、猫、特に人間様は朝7時前からウロウロしていて隣家の犬がワンワン吠えまくる始末で、近所迷惑にもなっている為だった。

かって、焼却炉から拾っていた鉄製の柵で部分的に腐っていたものを切り取り新しい型材で補修修理し、ペンキを塗り直し、距離が長いため途中で支柱を立て段差をつけながら3m程を作り、一部普段の出入り口用にの開閉扉とした。

問題は不定期に出入りする車のための門扉だった。この部分は拾ってきた鉄柵ではなく、新たに作らなければならなかった。 長さ3m鉄を加工して作れないことはないが、重さで支柱が持たないだろうと考え木製にすることにした。 ホームセンターで2×4材12フィートを3本買い、寸法取りしてペンキを塗る。もちろん鉄と同じこげ茶色だ。これで鉄だか木だか分からなくなった。間の柵はこれもありあわせの塩ビを使い白の塗装をした。

トラックが出入りする時のために木製と鉄製の間の支柱は抜き取ることが出来るようにしてある。そして、門扉を開けると4mの空間が出来トラックの通行も可能となる。後は、門扉の開閉のための駆動部と ロックを兼ねた取っ手を「地図にない田舎」に備えてある鍛冶工房で制作(村の鍛冶屋も久しぶり)、電気溶接と合わせ完成させた。

最後に普段の出入りごちの上部に飾りをつけオシャレ感を出してみた。

出来栄えはどうでしょうか?以上で製作日数11日間、費用はしめて1万5千円程でした。(鉄材は全てストックしていた材料を使用する)

マザー・テレサと風の電話

最近、難病やガン末期の現場で盛んに用いられている終末医療。ガンという困難な病気に直面し、生きることそのものに疑問を持ち、人生の意味や死の恐怖、死後の心配などについて苦しみを抱え患者を苦しめている臨床の場に、医師やケアに当たる方々と患者の近親者が一緒に参加する緩和医療が持ち込まれるようになった。

マザー・テレサは、「死にゆく人は生きている者の世界から排除され、隔てられるという不安と恐怖を感じ孤立する危険がある。その不安を少しでも軽減するためには、その死を受け止める役割をする人が必要です」と「死を待つ人々の家」をつくり、どんな人間でも誰かがその死を受けとめる役割をすることを行動で示した。

「誰かに別れを告げることで死にゆく者は、この世に存在していたという認識を得て誰かに何かを引き継ぐという再生の希望を得ることが出来る」と語る。

この様にマザー・テレサは死にゆく人たちの不安や恐怖を取り除き、穏やかに安心して死を受け入れられるように、「死を待つ人を対象とした」寄り添いを実践した。

災害、事故、自殺等の場合その死はある日なんの前触れもなく突然に訪れる。

長い闘病生活の末亡くなるのと違い、自らの人生の振り返りも夢や希望の検証も、また残される家族に対する今後の生活の心配を考える間もなく逝ってしまう。それだけに亡くなる当事者も、後に遺された遺族も伝えたかった想いが沢山あるだろうと思う。しかし、想いを伝える相手はもういない、何処へも持っていき場の無い悔しさと怒りの混じった悲しみだけが残ることになる。

私は、従兄がガンになり皆に看取られながら死を迎えた終末医療の「場」と、東日本大震災で突然に大勢の人が不慮の死を遂げるという、両方の死に至る状況をほぼ同時期に体験した。

従兄(武川博久)は4歳年上で享年69才、趣味で書道と合気道の師範をしていた。子供の頃より一緒に遊び、兄のように慕っていた。2009年、彼がガンを患い余命3カ月を宣告され闘病生活を送っている時、人の命の儚さということが脳裏から離れることはなかった。

人は生まれてから死ぬまでおよそ80~100年、これを短いと見るか長いと見るかは人により受け取り方が異なるだろう。しかし、人が生きている時間と亡くなってからの時間を比べた時、亡くなってからの方が断然長く、永遠に続く時間がある。ならば、生きている間だけの「絆」ではなく、亡くなってからも「絆」を保ち続けることが重要な意味を持つと考えた。

「風の電話」の構想はこの時点で出来ていた。そして、この意識を大切にするために詩「風の電話」を創った。


「風の電話」

佐々木 格

人は皆過去を持ち

現在があって未来がある

又その時々に出会いがあり別れがある

風の電話はそれらの人々と話す電話です

あなたは誰と話しますか

それは言葉ですか文字ですか

それとも表情ですか

風の電話は心で話します

静かに目を閉じ

耳を澄ましてください

風の音が又は浪の音が

あるいは小鳥のさえずりが聞こえたなら

あなたの想いを伝えて下さい

想いはきっとその人に届くでしょう


一方、震災では誰も望んで亡くなった人はいない。突然の出来事に成す術もなく津波に飲まれた人、必死で逃げようとしたが避けきれなかった人、その経緯は様々だが、犠牲になった皆さんはもっともっと生きたかったはずだ。なんとか生きようと努力をしたことだろう。しかし、それが叶わないと知った時、家族の無事を祈ると共に、伝えたいことが山ほどあったことに悔やんだに違いない。「生きたいのに生きられない、伝えたいのに伝えられない」この気持ちを推し量る時、その無念の想いを何としてもつなぐことが必要だと強く思った。

また、遺された家族にしても、もう会えないと分かっていたならもっともっと語り合い、お互いをより理解し、たくさんの思い出を創っておけばよかったと‥‥。しかし、亡くなった人はどんな努力も、どんな手段を持つてしても戻っては来ない。話すことも遊ぶこともできない。自責と後悔の思いが渦まき思考が混乱し、実生活からの様々な要請に現実感が無くなり自分を見失ってしまいがちになる。

人が生きていくためには希望の光を見いだすことが必要となる。亡くなっても心を通わせあうことが出来る、いつも身近にいてつながることが出来るという希望を見つけることが出来たなら、生きていく上でどれほど力づけられることだろうか。また、遺された人たちが死者に寄り添うことで、自分が生者として今を生きていることを実感されるはずだ。そして、亡くなった方が自分を見守ってくれているという安心感が大切な人を失った悲しみから遺された方々を癒してくれるはず。想いをつなぐということはそれ程大事なことであり、命の重さや命の尊さに気付かせてくれることにもなる。この様な考えのもと「風の電話」-は死にゆく人ではなく、亡くなった人に遺族がが想いをつなぐことで生前と変わらぬ絆を維持でき、悲しみの絶望から希望を見出し新たな生活の再生を得るという、遺族への寄り添いなのだというところがマザー・テレサの「死を待つ人々の家」の活動と異なるのである。

「風の電話」は感性と想像力の産物

今の世の中は効率を重視するあまり、結論を早く出そうとする傾向にあるのではないでしょうか。目に見えるもの、耳に聞こえるものだけに価値を置き、それを基準に結論付ける傾向が見受けられます。

しかし、目を閉じ耳を塞ぎ想像力を働かせると、見えないものも観え、聞こえないものも聴こえてきます。自分の考え方が心にはっきりと見えてきます。

現代人のように豊富な知識と技術の発達している時代だからこそ、感性を磨き「心で観る、心で聴く」ことが大切になつているのではないでしょうか。

本当に大事なものは何か、本当に必要なものは何か、本当に伝えていかなければならないものは何か、想像力を働かせ多方面から物事を考えることでその本質が見えてくること、「風の電話」を通して感性を育み、想像力を育てることの大切さを考えています。