普段は合理的な論理で物事を考える人が愛する人を失うとか、或いは何らかの原因で喪失によるグリーフを抱えた場合、生命力が低下し、理詰めの論理より情緒で物事を捉え感情で行動する傾向があります。 なぜなら、隙のない論理で構築されるところに人の情が求める「救い」の要素を感じることは余りないと考えています。「風の電話」は、「見えないものを観る、聞こえないものを聴く、回線はつながっていないので何処にでもつながれる」等々、「あり得ないことであってもこうならないだろうか」とか「実際には無理だと思うがこうならないか」という論理的ではなく、何か漠然としているが反面、見果てぬ夢とか希望が持てると感じられるからです。しかし、今回はあえて「喪失による悲しみ」を論理的に考えて、再生の道を探してみたいと思います。 愛する人の死は、情緒的には亡くなって欲しくない大切に思う感情があるからで、死によって悲しみの感情が自然に湧き起こってきます。二人の間にはお互いに相手がいるから自分があるという「関係存在」の概念があります。だとすると、論理的には愛する人を失うということは「人は他人によって生かされている」という関係存在の概念から「自己存在」の意義が失われるからだと捉えることが出来ます。従って、悲しみを癒すためには「自己の存在」を認めてもらえる・理解してもらえる他の人との新しい関係の構築が必要になると考えます。 亡くなった愛する人を他の人に置き換えることは難しくそう簡単ではないだろうが、あえてそこにエネルギーを注ぎ込むこと以外自らの再生の道はないと考えます。 私たちは、生まれてこのかた一人で生きているのではなく人と人、人と自然等の関係性の中で生きているのであり、それらとの関係性をどのように作っていくかが次のステップのあり方を決めることになるのです。そして、関係性の遮断が「うつ病」か「新たな人生を生きる」かの分岐点になるのではと考えています。 ものごとの状況を情緒で捉え納得し受け入れたなら、思考を論理的に切り替え、新たな人生のステップにつなげて欲しいと思います。

