昨年11月19日ブログで紹介致しました、風の電話で勝也さんに呼びかけたご両親、祖父母のことが気になり、「なんとかしてお地蔵さまを手渡したい」とその消息を尋ねていました。
町役場、警察に尋ねても個人情報というバリヤーに跳ね返され途方に暮れていた時、取材に訪れていたTV局の方に相談したところ、その夜遅く「震災当初ツイッターで勝也さんの消息を尋ねてる人がいる」と電話がありました。
翌朝(2月12日)会社名から電話番号を調べ電話を入れました。「御社に○○勝也さんという震災で行方不明になっている社員の方はいないでしょうか?」の問いかけに「います」との返事。
事情を話し、親御さんに連絡を取りたいと話したところ、上司と相談しますとのことだった。それから3時間ほどたち会社から電話があった。「ご両親は今大槌に行っているようですから直接電話してみて下さい」。携帯番号を聞き早速電話をしたところ私の家に向かっているところで「間もなく着く」という返事。
何と言う展開だろうか!
程なく着いた4人を招き入れお話を聞くと次のようでした。
勝也さんは、10年に大学を卒業して宮城県の会社に就職、その年の11月に長期出張で釜石に滞在して仕事をしていた。震災当日は、大槌町小枕(海岸のそばの地域)でNTT関係の倉庫で仲間7人で仕事中だった。外で「津波だ上に逃げろ」という声に2人は山へ、5人は2階に上がった。津波は、山に逃げた1人と2階の5人をのみこんだ…。
6人の内2人は未だ行方不明であり、勝也さんがそのひとりだ。
その日以来、ご両親と祖父母の皆さんは毎月1回は、何か手がかりを求めて被災された場所に来ているのだという。今日電話が繋がり、風の電話のノートに「勝也 早く家に帰ろう」と残してから4ヶ月ぶりにお地蔵さまを手渡すことができたのも、単なる偶然とは思えない気がします。
勝也さんのお母さんは震災のその日以来、精神が不安定になり「自分が何をしているかわからない」といいます。
今回の件を通じて、「私達は本当に必要とされる方たちに必要なケアをしているのだろうか?」と考えてしまいました。
復興まちづくり、高台移転、公営住宅の用地確保、土地区画整備等の住宅再建の道筋は遅いながらも見えてきました。しかし、心の復興に関する限り何時、どこで、誰が、何故、何を、どのようにやろうとしているのか明確に見えてきていません。
表には見えにくい心の問題だけに難しさはあります。今回、家族(息子)が行方不明になっている親の気持ちに触れその喪失感の大きさ、苦しみを垣間見ました。これから自分たちがやるべきは、同じような境遇にある人々の輪をつくり、お互いの苦しみ悲しみ、心の苦悩を吐露できる場づくり。そして、それら苦しみを軽減させる活動にあると考えました。
「あの故郷(まち)に帰ろう」
佐々木 格
あの日僕は誰にも告げず故郷を出た
途中何度も家族の笑顔が僕を引き戻そうとした
見えない大きな力が僕を包み
故郷から遠く引き離した
そこは見知らぬ街で僕は迷い混乱した
行きつけの店も知った顔も懐かしい花の香りもここにはない
はてしない暗闇が続く街
ここの街外れは何処にある
僕の居場所はどこにある
帰りたい
もとの森や小川のある故郷がいい
小さなマーケットと美容室それに小さな花屋があればいい
帰りたい
僕が笑い君と家族が笑う故郷
みんなで肩寄せあえるところがいい
今は笑顔で話す僕はいない
だけど君には見えるはず
君と家族の住むあの故郷が僕の居場所
何時もいるよ
愛する人が幸せに暮らせるように
何時もいるよ
いつも傍に寄り添い手を差しだせるように
あの故郷に帰ろう