写真中央鈴木東蔵工場長と宮沢賢治と砕石工場に働く人たち
東山町にある宮沢賢治詩碑「まづもろともに」
梅雨入りしてから雨が降らず、ガーデン作業がはかどりツアー報告が遅れていましたが、ようやく雨の日になりPCに向かうことが出来ました。
梅雨の時期で、東山町へのツアーは天候が心配されたが好天に恵まれ、楽しい1日を過ごすことが出来た。
東山町の東北砕石工場と言いますと、賢治が昭和6年春から技師として働き始めたこと 、火山性特有の酸性土壌の改良に石灰を利用して農産物の収穫を図りたいという強い意思が働いた。その激務の為その年の秋に出張先の東京で倒れ、その後花巻で病床に伏すことになった。その年の11月に手帳に記されたのが「雨ニモマケズ」だった。
昨年からの各市町村宮沢賢治関係者、団体と交流連携する中で地元の者でなければ分からない情報を掘り起こし、その企画を基に賢治フアンを交流人口拡大につなげたいとする我々大槌宮沢賢治研究会の想う成果が今回の交流でもあつたのではないだろうか?
まず写真上の採石場の人達の人形だが14人の人形体があるが、1人は全く関係ない人物がいるのだそうです。人形を作る時に自転車で魚の行商に来ていた男が(右から2人目)紛れ込み砕石工場作業者として陳列されている。
鈴木東蔵工場長の長男、鈴木実さんが陸前高田高校校長の時、谷川徹三氏が揮毫された「まづもろともに~」を碑銘板にしていること、今年、東山町の詩碑が建立70周年を迎え、徹三さんの息子の谷川俊太郎さんと孫の谷川賢作さんを迎えて「賢治とともに詩と音楽の世界へ」を記念事業として次の世代のこどもたちに伝えている。
昭和23年12月10日詩碑は建立されている、碑文の揮毫は谷川徹三氏であるが当初、長坂村青年団団長だった鈴木実氏は高村光太郎氏に詩文と揮毫をお願いしに行ったところ筋を通せと大喝され、宮沢清六氏に相談に行き谷川徹三氏を紹介されたということです。その後の徹三氏の揮毫ができるまでに1年程要したこと、出来てきた揮毫には宮沢賢治の名前も谷川徹三氏の書名もなく後日、「宮沢賢治記念のために 谷川徹三 書」と刻まれたこと等。
詩碑建立の為に当時の長坂中学校の生徒たちが砂鉄川から砂利を運び上げた話や土台石を青年団が竿につるして担ぎ上げた様子等知見を得ることが出来た。
それにつけても平成27年9月23日の普代村の「宮沢賢治詩碑祝いの集い」東村山町の「宮沢賢治まづもろともに建立70年記念事業」が町村民一体となつた活動として実行できていることに強い羨望を感じる。町としても予算化し応援したいのでと要望書を出させておいて、「そんなことは言っていない」と白を切る態度の行政とは差がありすぎる、どんな町の復興になるのか思いやられる。
マイクロバスを貸してくれた南部屋産業の小笠原社長、長時間の運転を務めた山崎会員、東山現地で交流してくれた藤野前ミュージアム館長、東山賢治の会の佐藤会長さん方に改めてお礼申し上げます、今後ともどうぞよろしくお願いします。