東日本大震災から12年

愛する家族を失ったその傷は、12年たった今もありありと存在し、この時期になると疼き悲しみを呼び覚ます。

特に、思い出に触れた時、回復した傷跡に触った時のように神経が傷つき無感覚になっている感じとも違う。むしろ、むき出しになった神経が空気にさらされ、大声で叫びたいような生々しさを伴い湧きおこる。

それは、今いる現実から飛び出したいような、また傷跡を何かに覆われることを待っているような複雑な感覚に囚われているようにも感じられる。

いづれにしても、自分の心を自由にするも、拘束するも自分自身の心の持ち方次第なのだと思う。

 

3冊目の著書「風の電話と共に」出版

7月11日に3冊目の著書となる「風の電話と共に」を出版しました。

東日本大震災から11年が経ちました。昨年で10年、一つの節目を迎えたと思いましたが、被災者は未だ様々な問題を抱えており苦しんでいる方も多いのが現状です。特に、大切な人を失った悲しみは、時間と共に癒えていくというものではなく、個々人の被災状況によってその受け止め方は大きく異なり、 愛する家族を失ったその傷は、いつもありありと存在しています。

「風の電話」を通じての実践活動から「大切な人を失った方々はなぜ自分の殻に閉じこもるのか」「なぜ意識の向け換えが大切なのか」「どうすれば悲しみ苦しみを乗り越えられるのか」等々、感性だけで始めた活動にその後、自分なりの論理性を求めてきました。そしてこれまでの著作や思考を整理し深めることが「風の電話」をより理解してもらうことになるとの考えに至りました。

前著「風の電話 ― 大震災から6年、風の電話を通して見えること ―」「風の電話とグリーフケア」の二冊と多少重なる部分もありますが、これまで様々な場で語り書いてきたものに筆を加え、色々な方との話も引用しました。この本を読んでいただければ、11年にわたる「風の電話」の活動の片鱗がご理解頂けるものと思います。

全国の書店又はAmazonにて発売中です。

風が緑の空間に暮らす

今年は、桜の開花が例年に比べ1週間ほど早かった。

桜が終わり、風薫る新緑の季節を迎えました。私にとって1番好きな季節といえます。

今年は、大震災から10年と言うこともあり1月頃から取材対応に追われ忙しい日々が続きました。が、3.11が過ぎたとたんあの騒がしさは何処に行ったのか、何だったのかと思うほど静かになったと感じています。世の中も季節と同じように変化しており、その時々に興味の対象が変わるのは当然であり、震災の被害者であっても悲しみの中にとどまっている訳にはいかないのだと思っています。今の生活の中にこそささやかでも喜びを見つけ、それを楽しまなければならない。

コロナ禍の影響で自粛生活を余儀なくされていますが、そんな中でも自分の意識の持ち方次第で楽しくも、退屈にもなります。大きな自然のリズムに身をゆだねゆったりと、のんびりとこのゴールデンウイークを過ごしてみませんか。

心の傷は誰が治療するのか

 

人間の持つ五感に見る、聞く、触る、食べる、嗅ぐ等は肉体上の認知器官を使って認識している。しかし、何時か何かの時に嗅いだ匂いとか味を思い出したり、既に亡くなりそこにはいない人の声や姿を感じたりする認識はどこでするのだろうか。

これは、肉体の認知器官で行う行為ではなく、心で感じるという行為になる。だからその場で味わったり匂いを嗅いだりは出来ない「心の対象」ということになる。

従って、心も認知器官だと考えることが出来る。人が癒しの感覚を得るためには、五感のほかにこの「感じる」という感覚が最も重要になってくる。

「風の電話」では他の認知器官と異なり特別な癒しを受け止めることができるという背景には、この「感じることが出来る」という点に注目しなければならない。「何も見えないけど電話の向こう側に相手がいるように感じる、何も聞こえないけど電話の向こう側に伝わっているよう感じる」このように心の癒しにとって最も重要な「感じる」という感覚は、人間の持つ感性と想像力で心がそう受け取っているということであり、何物にも代えられない心のメッセージなのだ。

それでは、ここで言う「心」私たちがよく口にする心というものは人の身体のどこにあってどんな形をしているのだろうか?

私たちは良く、「謂れ(いわれ)のない噂に心が傷ついた」とか、「信用していた者から裏切られ心が傷ついた」或いは、「大切な人を失い心が傷を負った」などと話すが、その「心」は外部からは見えないし、自分でもどこにあるのかもわからない。しかし、自分で心と言うものがあると自覚しているし、どんな人にも心は必ず存在しているものと思っている。

自分の身体の内部のどこかに存在するけれど自分でも良くわからない「心」

グリーフにより傷ついた自分のこの「心」を心理療法家と言われる外部の人間が治療するのだから難しさこの上ない。

何故なら、治療にあたる専門職の方々が立場の違う当事者を理解するため、当事者と周囲の人々との関係、価値観、生活状況や世界観等を訊ね、気持ちの分かち合いや信頼関係を築こうとするのだがなかなか出来ることではない。当事者が肝心なところで本心をさらけ出してくれるとは思えないからである。それが出来るぐらいならうつ病になるほど悩まないし苦しまないのではないだろうか。

以前、「風の電話」活動を始めて間もなく、あるお坊さんがお寺の境内に「風の電話」を設置したいので許可してくれないかと手紙で聞いてきたことがあった。理由を聞いてみると、坊さんに人生の悩み、苦しみの相談に人々が来るのだがなぜか肝心のところに来ると心を開かないのだと言い、だから「風の電話」「を置いて心の全てを話させるようにしたいのだということだった。その坊さんには、「私ごときがおこがましいのですがあなた自身が仏教でいうところの『徳』を積み、相談者が何でも話せるようになることが肝心ではないか、あなた自身が風の電話になることではないでしょうか」とお断りしたことがあった。

このように人の心の内奥を吐露させることは簡単ではないと言える。

心理学者の河合隼雄先生によれば、「心の傷を治すのは医者ではなく、当事者であって医者にできることは当事者が自分で治すのを見守り、助けることだけだ」と語っている。

つまり、「心の傷」を治すのはカウンセラーや医者ではなく当事者の「心」であって、カウンセラーにできることは、当事者が孤立しないよう寄り添い、安心して悲しみや苦しみの感情を出せる環境づくりをしつつ、当事者が自分で意識の向け換えが出来、再生するのを見守り続けることなのだ。

従って、心の傷の再生には、当事者が安心し自分の感情を思い切り吐き出す環境が必要なのだと考える。「吐き出せば呼吸と同じに吸わなければならない、吸って吐いての繰り返しが生きるということなのだ」と話す震災で連れ合いを亡くした友人の言葉を思い出す。

「風の電話」は、周囲から隔離され、秘密が守られ、言いたいことが言える自由が確保され、誰にも邪魔されず感情を思い切り発散させる機能を備え、自分で自分の心の傷を癒せるように、何時でも誰でも静かに待っている。