第25回宮沢賢治賞・イーハトーブ賞発表になる

7月のはじめ宮沢賢治学会事務局から電話がありました。「イーハトーブ賞奨励賞の候補になりました」「これから花巻市に答申します」「決定ではないので外部には漏らさないでください」何のことでしょうか?と私が訊ねると風の電話と森の図書館の活動が賢治の精神を実践しているのだとしそれに対する受賞だと説明を受けました。

それでも納得がいかずに、現在「大槌宮沢賢治研究会」の活動を展開中であり、それの間違いでわないのですか(それにしてもなんか早すぎるとは思ったけれど)と訊ねても風の電話・森の図書館の活動に対しての受賞ですと言いますのでとりあえず大変嬉しいです、ご苦労様でしたと電話を置いた。

それからインターネットで宮沢賢治賞を検索してみると、1991年の第1回から始まり今年は第25回目に当たります。受賞者の顔ぶれを見てみると第9回の井上ひさし、第23回シンセサイザーの富田勲、第24回影絵創作の藤代誠冶等々第一線で活躍している、或いはされた名前が紹介されています。私のような者が活動の自覚がないまま受賞していいのだろうか、疑問が残りました。

7月23日再び学会の事務局長より電話があり「イーハトーブ賞奨励賞に決まりました。発表は7月27日午前11時になります、それまでは外部には漏らさないようにして下さい」ということでした。

選考経過および理由についてには、次のようなことでした。大槌町の高台に自ら造園した庭園に電話線のない電話ボックス「風の電話」を設置し、東日本大震災で被災した方が亡くなった親しい人と語る場所として公開した。それに対する大きな反響を受けて、佐々木氏は、主に被災した児童を念頭に、石造りの私設図書館「森の図書館」を立て、そこで賢治に関連した展示や朗読も催している。親しい人を失った人に対する心のケアや、地域の共同性の再構築を、造園・建築・芸術等を通して行っていることは、宮沢賢治の名における奨励賞にあたいする。というものでした。

確かにそれ等の活動はやってきましたが、ごく当たり前のことをしてきただけと言う思いはあります。震災後被災地の私達は多くの人達から「縁」だ「絆」だと多大な支援を受けてきました。この事実を見る限りそれらの活動をされた皆さんにも十分資格があると思われます。

我々はこの自然界において深い繋がりで影響し合って生きています。誰も一人では生きられないのです。その生き方の原点を今回の大災害は再認識させてくれました。被災地で生き残った我々は津波で犠牲になった方々、或いは今後生まれてくる子ども達に対して責任があります。「どのような生き方をしなければならないか」。生き残った我々は当然考え続けなければなりませんし、考えたことを行動に移してゆかねばなりません。

宮沢賢治の生き方に「被災地の人々がどのように生きなければならないか」ひとつのヒントを見ることが出来ると考えています。賢治の生涯を貫いた信条は「自己犠牲」と誰か人のために役立つという「利他の精神」ではないかと思っています。

これ等の追求して行く先に賢治の言う「ほんとうのさいわい」があると考えています。

ここに考えが至り、それを実践した時にはじめてイーハトーブ賞奨励賞に相応しい活動が出来ていると感じれるのではないだろうか。

今年2月15日に発足した「大槌宮沢賢治研究会」は、これ等の追及と「賢治と大槌の関わりのある詩碑を建立し」大槌の新しい歴史の創造と、これ等を活用した交流人口の拡大を図ることを目的とし現在募金活動をしております大槌の皆さんで、大槌の新しい歴史を創造していきたいと思っています。なにとぞ ご協力をよろしくお願いいたします。

連絡先:ベルガーディア鯨山 佐々木 格(電話:0193-44-2544)

大槌宮沢賢治研究会発足する

15日午後13時定刻どうり、「宮沢賢治と大槌の関わりを知る」というタイトルの会が開かれた。23名の参加者があり、大槌の新しい歴史を創造するのだと言う思考が大切だと言う話の後、薔薇輝石にまつわる話として、賢治は盛岡高等農林学校に在籍中薔薇輝石の標本や大鉱物学(下巻)で知っていた。しかし、賢治自身が探した記録は無い。

賢治のことを知り薔薇輝石を探しに大槌のマンガン鉱山を歩き、今でもマンガン鉱石のズリ(餞別したカス)の中から見つけられること、また薔薇輝石を詠んだ詩「暁穹への嫉妬」について紹介する。

「旅程幻想」については、賢治は宮古を1月8日午前0時発の三陸汽船に乗り、2時30分山田湾の船着場で下船する。その後、月明かりの中16kmの浜街道を海に沿い、いくつもの峠を越えたり萱の野原を通ったりしてひとりここまで来たのだけれどもいまこの荒れた河原の砂の、うす陽のなかにまどろめば、(2時半から16キロの道を歩き疲れと眠気から眠ってしまったと読める)肩またせなのうら寒く何か不安なこの感じは確かしまいの硅板岩の峠の上で放牧用の木柵の楢の扉を開けたままみちを急いだためらしく(眠った後、肩またせなのうら寒いのは何も心理的、精神的不安感だけではなく、賢治が言うように道を急いだため物理的に体が汗ばんでいたと推定する。目を覚ましたときに少し寒く感じた。また硅板岩は大槌浪板地区にある砕石場の岩石、ホルンフェルスの一形態の石のことを指している。更に、当時山田町四十八坂から浪板にかけては牧場があり牛を放牧していた。かって浪板は製塩が盛んに行われ、その塩を内陸に運ぶのに牛を使っていた。また浪板地区には「浪板牛方節」と云う牛方達が旅先の宿で余興に歌われた伝承芸能が残っている。また当時の「塩の道」も深い木立の中に痕跡が残っている。)

このように詩の背景から賢治は間違いなく山田で下船し、浜街道を歩いて大槌に入っている。それでは大槌川、小鎚川のどちらで休んだかとなると、コース的にみて大槌川と言えるのだが詩の背景から何か読み取れないか見てみた。

そこの光ってつめたいそらや・・・・その川上の幾重の雲とつめたい日射しの格子のなかで何か知らない巨きな鳥がかすかにごろごろ鳴いている(ここでは空、雲、日射しと空に関した言葉が並び、山と云う言葉は出てこない。

小鎚川では、川の上流遠くに標高800メートルの新山が見え、いかにも詩で表現するのにふさわしい情景です。その場合い、空と併せて山のことも詠むのではと考えられます。一方、大槌川は河原に佇んでみると近くの冬の裸木の山が迫り、何ら詩情を呼び起こすにも難しい風景に思われます。従って視線は、空とか雲、日射しに向かい、見えないかすかな雷の音を感じるという山の入らない表現になったのではと考える。)

以上のことから賢治が休んだ河原と云うのは大槌川の河原と推定します。

この後、「大槌 宮沢賢治研究会」の立上げには14名の参加者を得て、会の役員の選出今後の活動目的を話し合い、当面の活動として募金集めをし、賢治の詩碑建立を来年の賢治が没した9月21日までにすませ、その日に除幕式を執り行うことを決め16時30分に会を終了する。

「大槌 宮沢賢治研究会」を今後ともどうぞ宜しくお願いいたします。

大槌「宮沢賢治研究会」(仮称)発足へ

2月15日午後13時00分より大槌町中央公民館にて「宮沢賢治と大槌の関わりを知る」講演会を開きます。その会で「大槌 宮沢賢治研究会」(仮称)を発足させたいと考えています

大槌町は、東日本大震災で商業被災率が98%に達し、中心部や多くの公共施設を失い壊滅的な打撃を受けました。しかし、3年が過ぎ4年目を迎えようとしている今、町内全域で復興事業が本格化しています。

被災した多くの地域では賢治の「雨ニモマケズ」に勇気付けられ、励まされ不便な生活を我慢強く送っています。そんな今こそ賢治の利他精神に基づいた独自の価値観「人のために自分は何ができるか」「ほんとうのさいわい」という賢治のキーワードを考えてみたいと思っています。

今回、宮沢賢治と大槌の関わりを町民に広く知ってもらうには、1925年(大正14年)1月5日から9日までの三陸海岸の旅で詠んだ「「暁穹への嫉妬」と「旅程幻想」の詩とその背景を探ってみたいと思います。又、木村東吉氏の大著「宮沢賢治(春と修羅 第二集)研究ーその動態の解明ー」でも定かでない部分、1月8日宮古港を午前0時発の三陸汽船で南下、山田或いは大槌で下船したとなっています。「旅程幻想」を大槌の川原で読んでいることから宮古から一気に釜石に行っていないことはわかりますが、はたしてどちらで下船したのでしょうか?。

賢治はこの旅を「異途への出発」と未知への決意と、これまでの心象的な文学者から求道的な生活者へ大きく転換する決心を胸に秘めていたと思われます。

そうした心理面と、詩の下書き草稿形態の変更箇所などから推察していくと今まで定かでなかったところが見えてきます。山田で午前2時30分に下船し浜街道を歩き、いくつもの牧場を越え、硅板岩の峠の楢の扉を開けたまま等・・・・山田港で下船し歩いて大槌に入り、大槌川の川原で「旅程幻想」を詠み、更に歩いて釜石の叔父宮沢磯吉の家に行ったことが理解できます。(因みに、山田~大槌間の浜街道は当時の記録で4里弱、約16km)

「暁穹への嫉妬」」に詠われている薔薇輝石について賢治は、盛岡高等農林学校に在籍中に島津製作所製の標本No.153の薔薇輝石を見ています。それには陸中国上閉伊郡大槌村産と記されていました。本来、普代村でなく大槌で詠まれるべきだったかも知れません?。

これらの話をしてみたいと考えています。皆様のご来場をお待ちしております。

修理2日目

2日目、港さんは自宅のほうで午前中かけて扉の製作をしました。

前日には「これ程立派には作れないから簡単にそれらしく作るよ」と言っていましたが、私には解っていました。職人という者はそうではないと言うことを。

もし誰かが作った物を修理することになったら、絶対それに劣るものは作りたくは無く、同等かもしくはそれ以上の物を作ると対抗心を燃やすはずと妻に話していました。午後になり港さんが扉を持ってきたとき、言ったとおりだろうと得意顔になりました。扉の格子を簡単に角材で作ると言っていたのに出来てきた物はルーターで角がきれいに化粧の面取りされており前のものと同じにように加工してありました。

後は天候を見てペンキ塗りをしアクリル板のくるの待ちセットする。屋根のスレートを葺き替えすれば完全です。1月15日ごろの完成となるでしょう。

昨日、港さんの行動を宮沢賢治の理想とした生き方にたとえ紹介しましたが、風の電話の倒壊を発見したのが2015年1月8日。賢治が1925年(大正14年)1月5日に花巻から夜行列車にのり翌早朝八戸に着き、更に久慈まで列車でそれから発動機船で宮古まで行きます。宮古からは1月8日午前0時発の三陸汽船で山田湾船着場に1月8日朝2時30分に着き、下船する。

・それから船越四十八坂、浪板の牧場を通る浜街道を歩いて大槌に来て小鎚川の河原で休む。その時「旅程幻想」の詩を詠んでいます。

・山田か大槌で下船したかは定かでないが「旅程幻想」で賢治はいくつもの牧場を越えてきたと詠んでいる。又、大槌の白石船着場で下船したとすると小鎚川の河原は余りにも近すぎる。

解りましたか。90年の時を経て1月8日宮沢賢治さんが大槌に関係を持ったことになります。一昨年ベルガーディア鯨山では「宮澤賢治童話展」を開催し、期間中の5月3日には賢治記念館の牛崎服館長を招いてチェロと朗読のコンサートを行いました。昨年12月からは大槌中央公民館で「宮沢賢治イーハトーヴォと三陸海岸」を開催中です。1月10日には宮沢賢治詩の朗読会が開催され感動を新たにしました。さらに期間中に賢治に関する講演会を開催し、大槌宮沢賢治研究会(仮称)の発足を目指しております。そこの活動を通じて大槌の地に賢治の詩碑を二基建立したいと計画しています。

今回の出来事は、単なるこじつけの偶然ではなく時空を超えた賢治さんに対する想いが通じたのではないかと感じております・・・風の電話ですね!!

宮沢賢治展「イーハトーヴォ海岸と薔薇輝石」

本日(13日)より大槌町中央公民館ロビーにて宮沢賢治展「イーハトーヴォ海岸と薔薇輝石」を開催しています。

1年前からの企画でしたが、この間に賢治記念館の館長が替わったり、展示場リニューアルの為、記念館での現展示期間が9月29日までの期間が11月30日まで延長になったりと紆余曲折がありましたが何とか開催にこぎつけました。ひとえに大槌町教育委員会のご尽力のお陰だと思っています。

今後の計画といたしましては、年明け後、「大槌町宮沢賢治研究会」(仮称)の立上げ、賢治を学ぶ連続講座等を考えております。また、大槌町ゆかりの詩碑「暁への嫉妬」「旅程幻想」建立のための募金活動をはじめたいと考えております。詳細は後日明らかに致します。

その際は皆様のご協力をよろしくお願いいたします。