大槌宮沢賢治研究会発足する

15日午後13時定刻どうり、「宮沢賢治と大槌の関わりを知る」というタイトルの会が開かれた。23名の参加者があり、大槌の新しい歴史を創造するのだと言う思考が大切だと言う話の後、薔薇輝石にまつわる話として、賢治は盛岡高等農林学校に在籍中薔薇輝石の標本や大鉱物学(下巻)で知っていた。しかし、賢治自身が探した記録は無い。

賢治のことを知り薔薇輝石を探しに大槌のマンガン鉱山を歩き、今でもマンガン鉱石のズリ(餞別したカス)の中から見つけられること、また薔薇輝石を詠んだ詩「暁穹への嫉妬」について紹介する。

「旅程幻想」については、賢治は宮古を1月8日午前0時発の三陸汽船に乗り、2時30分山田湾の船着場で下船する。その後、月明かりの中16kmの浜街道を海に沿い、いくつもの峠を越えたり萱の野原を通ったりしてひとりここまで来たのだけれどもいまこの荒れた河原の砂の、うす陽のなかにまどろめば、(2時半から16キロの道を歩き疲れと眠気から眠ってしまったと読める)肩またせなのうら寒く何か不安なこの感じは確かしまいの硅板岩の峠の上で放牧用の木柵の楢の扉を開けたままみちを急いだためらしく(眠った後、肩またせなのうら寒いのは何も心理的、精神的不安感だけではなく、賢治が言うように道を急いだため物理的に体が汗ばんでいたと推定する。目を覚ましたときに少し寒く感じた。また硅板岩は大槌浪板地区にある砕石場の岩石、ホルンフェルスの一形態の石のことを指している。更に、当時山田町四十八坂から浪板にかけては牧場があり牛を放牧していた。かって浪板は製塩が盛んに行われ、その塩を内陸に運ぶのに牛を使っていた。また浪板地区には「浪板牛方節」と云う牛方達が旅先の宿で余興に歌われた伝承芸能が残っている。また当時の「塩の道」も深い木立の中に痕跡が残っている。)

このように詩の背景から賢治は間違いなく山田で下船し、浜街道を歩いて大槌に入っている。それでは大槌川、小鎚川のどちらで休んだかとなると、コース的にみて大槌川と言えるのだが詩の背景から何か読み取れないか見てみた。

そこの光ってつめたいそらや・・・・その川上の幾重の雲とつめたい日射しの格子のなかで何か知らない巨きな鳥がかすかにごろごろ鳴いている(ここでは空、雲、日射しと空に関した言葉が並び、山と云う言葉は出てこない。

小鎚川では、川の上流遠くに標高800メートルの新山が見え、いかにも詩で表現するのにふさわしい情景です。その場合い、空と併せて山のことも詠むのではと考えられます。一方、大槌川は河原に佇んでみると近くの冬の裸木の山が迫り、何ら詩情を呼び起こすにも難しい風景に思われます。従って視線は、空とか雲、日射しに向かい、見えないかすかな雷の音を感じるという山の入らない表現になったのではと考える。)

以上のことから賢治が休んだ河原と云うのは大槌川の河原と推定します。

この後、「大槌 宮沢賢治研究会」の立上げには14名の参加者を得て、会の役員の選出今後の活動目的を話し合い、当面の活動として募金集めをし、賢治の詩碑建立を来年の賢治が没した9月21日までにすませ、その日に除幕式を執り行うことを決め16時30分に会を終了する。

「大槌 宮沢賢治研究会」を今後ともどうぞ宜しくお願いいたします。