「風の電話」誕生の背景

これまで度々書いてきましたが、私は「人は皆人生という物語を生きている」と考えています。                 自分の人生に夢や希望を抱き、その実現に向けて日々努力しています。しかし、実現するまでそれはフィクションであり虚構です。つまり、作り話ですので小説や映画と同じ物語と捉えることが出来ます。                         そこには、家族を始め恋人や多くの友人・知人たちが関わり物語を構成しています。その中の誰かが亡くなった場合物語は中断され、悲しみと共にその後の展開に悩み苦しみます。                     喪失と言う失われた部分を補うには「亡くなった人に再会できる」 「再びつながれる」と言う新しい物語が必要となります。                          「風の電話」で黒電話を握りしめ自問自答することは、断ち切られた日々を一瞬でも取り戻すことになり、それまでの物語の振り返りや悲しみの原因の再考につながり、「何が悲しく、何が苦しみと感じているのか」思考が整理されます。         これ等は、心の奥深くにある自意識が言葉という形で表出されることによる自己の再発見であり、新しい物語の展開を意識させます。これが「再生」という生きる力を生み出していると考えます。                           死んでしまい姿、形がなくなってしまったのでもう思いを伝えることは出来ないと考えるなら「風の電話」は生まれなかったでしょう。                          私は、人間の言葉を話さない動植物たちとも想いを通じ合えることを12年間の山暮らしの中で体験しました。しかし、人の言葉を話すけれど亡くなってしまった人に想いを伝えることが出来るのかとなると、動植物との感性の交流とは違った感性が必要になると考えました。                      人間の寿命は80~100年ですが、それを短いと見るか長いと思うかは人それぞれでしょうが、 生きている時間と死んでからの時間を考える時、死んでからの方が永遠の時間があり、生きている時間の短さに気づかされされます。従って、生きている間だけの「絆」だけでなく、亡くなった後も「絆」を保ち続けることが非常に大切になると考えます。                  姿、形がないからと言って消えてしまったわけではありません、死者として存在していると考えることで死者ともつながれる、想いを伝えあえると考えた結果の「風の電話」なのです。              人の「生」と「死」は直線上でつながっていて、「生」の延長線上に「死」がある。また、世のなか全てのものは何らかの関連性を持たされている」と考えることから、「生」と「死」も同様切り離されるべきものでなく関連づけられていると考えるべきであり、「風の電話」で亡くなった人と想いをつなぐことが可能になると考えています。