「風の電話の物語」講演会 ありがとうございました

去る、2月25日静岡県 ALWFロッキーセンターで行われた「風の電話の物語」講演会。当初50名の募集に対して100名を超える皆様にお集まり頂き、90分の時間を楽しくまた、有意義に過ごす事ができました。

内容は、大槌の被災状況、復興の進捗状況、風の電話設置した背景、発想の原点、森の図書館立上げの背景、運営の考え方、物事の本質は見えない隠れたところにある等など。又、地元NP法人ヒューマン・ケア支援機構の上藤 美紀代さんの「絵本かぜのでんわ」の読み聞かせがあり、短く感じられた90分でした。

講演会は17終了し、18時30分からは会場を静岡音楽館AOIホールに移し、日本フィルハーモニー交響楽団1stヴァイオリン奏者 松本克己さんによる「東日本大震災復興への祈りをこめて」ヴァイオリンコンサートを開催されており、コンサートの収益金は、被災地支援として活用させて頂くと共に「風の電話」の活動支援のために寄付していただきました。

この場をお借りしてNPO静岡県ボランティア協会、松本克己ヴァイオリンコンサート実行委員会、公益財団法人静岡県労働者福祉基金協会、ライフサポートセンターしずおか事業部の皆様方に心よりお礼申し上げますありがとうございました。

追伸:
1週間留守にして3月1日帰宅しました。ところが風の電話BOXを見ると・・・いつも電話を訪れる人達をやさしく迎えてくれるお地蔵さまがいません、主のいなくなった小さな座布団だけがポッンと残っていました。誰か必要ある人が連れて行ったものと思われます。

誰かの役に立っていることはお地蔵さまも本望だと思っていることでしょう。できれば座布団も一緒に連れていつて欲しかった。お地蔵さま風邪などひかぬように!

大槌宮沢賢治研究会発足する

15日午後13時定刻どうり、「宮沢賢治と大槌の関わりを知る」というタイトルの会が開かれた。23名の参加者があり、大槌の新しい歴史を創造するのだと言う思考が大切だと言う話の後、薔薇輝石にまつわる話として、賢治は盛岡高等農林学校に在籍中薔薇輝石の標本や大鉱物学(下巻)で知っていた。しかし、賢治自身が探した記録は無い。

賢治のことを知り薔薇輝石を探しに大槌のマンガン鉱山を歩き、今でもマンガン鉱石のズリ(餞別したカス)の中から見つけられること、また薔薇輝石を詠んだ詩「暁穹への嫉妬」について紹介する。

「旅程幻想」については、賢治は宮古を1月8日午前0時発の三陸汽船に乗り、2時30分山田湾の船着場で下船する。その後、月明かりの中16kmの浜街道を海に沿い、いくつもの峠を越えたり萱の野原を通ったりしてひとりここまで来たのだけれどもいまこの荒れた河原の砂の、うす陽のなかにまどろめば、(2時半から16キロの道を歩き疲れと眠気から眠ってしまったと読める)肩またせなのうら寒く何か不安なこの感じは確かしまいの硅板岩の峠の上で放牧用の木柵の楢の扉を開けたままみちを急いだためらしく(眠った後、肩またせなのうら寒いのは何も心理的、精神的不安感だけではなく、賢治が言うように道を急いだため物理的に体が汗ばんでいたと推定する。目を覚ましたときに少し寒く感じた。また硅板岩は大槌浪板地区にある砕石場の岩石、ホルンフェルスの一形態の石のことを指している。更に、当時山田町四十八坂から浪板にかけては牧場があり牛を放牧していた。かって浪板は製塩が盛んに行われ、その塩を内陸に運ぶのに牛を使っていた。また浪板地区には「浪板牛方節」と云う牛方達が旅先の宿で余興に歌われた伝承芸能が残っている。また当時の「塩の道」も深い木立の中に痕跡が残っている。)

このように詩の背景から賢治は間違いなく山田で下船し、浜街道を歩いて大槌に入っている。それでは大槌川、小鎚川のどちらで休んだかとなると、コース的にみて大槌川と言えるのだが詩の背景から何か読み取れないか見てみた。

そこの光ってつめたいそらや・・・・その川上の幾重の雲とつめたい日射しの格子のなかで何か知らない巨きな鳥がかすかにごろごろ鳴いている(ここでは空、雲、日射しと空に関した言葉が並び、山と云う言葉は出てこない。

小鎚川では、川の上流遠くに標高800メートルの新山が見え、いかにも詩で表現するのにふさわしい情景です。その場合い、空と併せて山のことも詠むのではと考えられます。一方、大槌川は河原に佇んでみると近くの冬の裸木の山が迫り、何ら詩情を呼び起こすにも難しい風景に思われます。従って視線は、空とか雲、日射しに向かい、見えないかすかな雷の音を感じるという山の入らない表現になったのではと考える。)

以上のことから賢治が休んだ河原と云うのは大槌川の河原と推定します。

この後、「大槌 宮沢賢治研究会」の立上げには14名の参加者を得て、会の役員の選出今後の活動目的を話し合い、当面の活動として募金集めをし、賢治の詩碑建立を来年の賢治が没した9月21日までにすませ、その日に除幕式を執り行うことを決め16時30分に会を終了する。

「大槌 宮沢賢治研究会」を今後ともどうぞ宜しくお願いいたします。

大槌「宮沢賢治研究会」(仮称)発足へ

2月15日午後13時00分より大槌町中央公民館にて「宮沢賢治と大槌の関わりを知る」講演会を開きます。その会で「大槌 宮沢賢治研究会」(仮称)を発足させたいと考えています

大槌町は、東日本大震災で商業被災率が98%に達し、中心部や多くの公共施設を失い壊滅的な打撃を受けました。しかし、3年が過ぎ4年目を迎えようとしている今、町内全域で復興事業が本格化しています。

被災した多くの地域では賢治の「雨ニモマケズ」に勇気付けられ、励まされ不便な生活を我慢強く送っています。そんな今こそ賢治の利他精神に基づいた独自の価値観「人のために自分は何ができるか」「ほんとうのさいわい」という賢治のキーワードを考えてみたいと思っています。

今回、宮沢賢治と大槌の関わりを町民に広く知ってもらうには、1925年(大正14年)1月5日から9日までの三陸海岸の旅で詠んだ「「暁穹への嫉妬」と「旅程幻想」の詩とその背景を探ってみたいと思います。又、木村東吉氏の大著「宮沢賢治(春と修羅 第二集)研究ーその動態の解明ー」でも定かでない部分、1月8日宮古港を午前0時発の三陸汽船で南下、山田或いは大槌で下船したとなっています。「旅程幻想」を大槌の川原で読んでいることから宮古から一気に釜石に行っていないことはわかりますが、はたしてどちらで下船したのでしょうか?。

賢治はこの旅を「異途への出発」と未知への決意と、これまでの心象的な文学者から求道的な生活者へ大きく転換する決心を胸に秘めていたと思われます。

そうした心理面と、詩の下書き草稿形態の変更箇所などから推察していくと今まで定かでなかったところが見えてきます。山田で午前2時30分に下船し浜街道を歩き、いくつもの牧場を越え、硅板岩の峠の楢の扉を開けたまま等・・・・山田港で下船し歩いて大槌に入り、大槌川の川原で「旅程幻想」を詠み、更に歩いて釜石の叔父宮沢磯吉の家に行ったことが理解できます。(因みに、山田~大槌間の浜街道は当時の記録で4里弱、約16km)

「暁穹への嫉妬」」に詠われている薔薇輝石について賢治は、盛岡高等農林学校に在籍中に島津製作所製の標本No.153の薔薇輝石を見ています。それには陸中国上閉伊郡大槌村産と記されていました。本来、普代村でなく大槌で詠まれるべきだったかも知れません?。

これらの話をしてみたいと考えています。皆様のご来場をお待ちしております。

今年の春は早い

今シーズン初めて雪らしい雪が5cm程降りました。しかし、日中には解けて白くまばらに残っている程度で春は近いと感じさせます。

そういえば1週間前からベルガーディア内の福寿草、水仙、ロウバイが咲き始めています。

春は近いと言ってもまだ寒いので、地面から首を出さないで黄色い花だけを咲かせている状態は、マフラーを首に巻いたり、ハイネックを着たりする人間と同じだと思っています。

植物は動けないし、寒いと文句も言いません只、じーっと首を引っ込め咲いています。なんかいじらしいですね。

ロウバイは未だ2・3輪ですがしっかりと芳しい香りを漂わせています。今年は花芽が少し少ない気がします。

水仙は1ヶ月以上早い開花です。東日本大震災があった2011年は3月の半ば頃の開花でした。妻が浪板の震災犠牲者安置所に咲き始めたばかりの水仙をガラスのコップに入れてお供えしたことが思い起こされます。震災直後で花屋さんも流され花も何も無く、雪が降るぐらいですから未だ花もどこにも咲いていない状況でした。非常に悲しい思い出です・・・

紅いサザンカは昨年の12月からずーと咲いています。我が家では水仙が咲き始めるまでの間の冬を彩る貴重な花となっています。おかげ様で仏壇には生花を途切らすことなくお供えすることが出来ます。お庭がある方には是非1本植え付けをお薦めの花木です。

何時ものことながら花が咲き始めるとガーデン回りの片付けにいそがしくなります。昨日は、滋賀県の神慈秀明会のボランティアの皆様の支援を得て、「木ッ木の森」の枯れ枝掃除をすることができました。お蔭様です、ありがとうございました。

燭台製作

冬期間の仕事と言えば、鍛冶工房での燭台製作がある。かれこれ10年程になる。鋼板や丸棒,角材やパイプを熱してハンマーで叩く。いわゆる鍛造と云う方法でパーツを作っていって溶接で接合して形を作る。その後、熱処理をして蜜蝋でコーティングする、それを磨き上げ、黒光りした味わいのある燭台に仕上げるのである。

今年のデザインは今までとは違い、単純なフォルムの中に力強さが感じられる本格派、玄人受けのするような作品となった。これに蜜蝋キャンドルを灯し、その炎の揺らめきを見つめていると遠い昔のことが懐かしく思い起こされる。

昨日17日は、阪神大震災から20年という節目を迎えた、竹灯籠に灯をともし、手を合わせる姿がメディアで繰り返し紹介されていました。20年たった今でも大切な人を失った悲しみは変わらないと話す女性・・・・。何年経とうが悲しみは癒えることはない、遺族の悲しみや苦しみを改めて知ると共に、その中でも懸命に日々の生活を送っている人達に、東日本大震災の被災者の20年後を重ねてしまい、思い出すことで故人をいとおしむことが出来るようになっていて欲しいと願わずにおられませんでした。