大槌「宮沢賢治研究会」(仮称)発足へ

2月15日午後13時00分より大槌町中央公民館にて「宮沢賢治と大槌の関わりを知る」講演会を開きます。その会で「大槌 宮沢賢治研究会」(仮称)を発足させたいと考えています

大槌町は、東日本大震災で商業被災率が98%に達し、中心部や多くの公共施設を失い壊滅的な打撃を受けました。しかし、3年が過ぎ4年目を迎えようとしている今、町内全域で復興事業が本格化しています。

被災した多くの地域では賢治の「雨ニモマケズ」に勇気付けられ、励まされ不便な生活を我慢強く送っています。そんな今こそ賢治の利他精神に基づいた独自の価値観「人のために自分は何ができるか」「ほんとうのさいわい」という賢治のキーワードを考えてみたいと思っています。

今回、宮沢賢治と大槌の関わりを町民に広く知ってもらうには、1925年(大正14年)1月5日から9日までの三陸海岸の旅で詠んだ「「暁穹への嫉妬」と「旅程幻想」の詩とその背景を探ってみたいと思います。又、木村東吉氏の大著「宮沢賢治(春と修羅 第二集)研究ーその動態の解明ー」でも定かでない部分、1月8日宮古港を午前0時発の三陸汽船で南下、山田或いは大槌で下船したとなっています。「旅程幻想」を大槌の川原で読んでいることから宮古から一気に釜石に行っていないことはわかりますが、はたしてどちらで下船したのでしょうか?。

賢治はこの旅を「異途への出発」と未知への決意と、これまでの心象的な文学者から求道的な生活者へ大きく転換する決心を胸に秘めていたと思われます。

そうした心理面と、詩の下書き草稿形態の変更箇所などから推察していくと今まで定かでなかったところが見えてきます。山田で午前2時30分に下船し浜街道を歩き、いくつもの牧場を越え、硅板岩の峠の楢の扉を開けたまま等・・・・山田港で下船し歩いて大槌に入り、大槌川の川原で「旅程幻想」を詠み、更に歩いて釜石の叔父宮沢磯吉の家に行ったことが理解できます。(因みに、山田~大槌間の浜街道は当時の記録で4里弱、約16km)

「暁穹への嫉妬」」に詠われている薔薇輝石について賢治は、盛岡高等農林学校に在籍中に島津製作所製の標本No.153の薔薇輝石を見ています。それには陸中国上閉伊郡大槌村産と記されていました。本来、普代村でなく大槌で詠まれるべきだったかも知れません?。

これらの話をしてみたいと考えています。皆様のご来場をお待ちしております。

今年の春は早い

今シーズン初めて雪らしい雪が5cm程降りました。しかし、日中には解けて白くまばらに残っている程度で春は近いと感じさせます。

そういえば1週間前からベルガーディア内の福寿草、水仙、ロウバイが咲き始めています。

春は近いと言ってもまだ寒いので、地面から首を出さないで黄色い花だけを咲かせている状態は、マフラーを首に巻いたり、ハイネックを着たりする人間と同じだと思っています。

植物は動けないし、寒いと文句も言いません只、じーっと首を引っ込め咲いています。なんかいじらしいですね。

ロウバイは未だ2・3輪ですがしっかりと芳しい香りを漂わせています。今年は花芽が少し少ない気がします。

水仙は1ヶ月以上早い開花です。東日本大震災があった2011年は3月の半ば頃の開花でした。妻が浪板の震災犠牲者安置所に咲き始めたばかりの水仙をガラスのコップに入れてお供えしたことが思い起こされます。震災直後で花屋さんも流され花も何も無く、雪が降るぐらいですから未だ花もどこにも咲いていない状況でした。非常に悲しい思い出です・・・

紅いサザンカは昨年の12月からずーと咲いています。我が家では水仙が咲き始めるまでの間の冬を彩る貴重な花となっています。おかげ様で仏壇には生花を途切らすことなくお供えすることが出来ます。お庭がある方には是非1本植え付けをお薦めの花木です。

何時ものことながら花が咲き始めるとガーデン回りの片付けにいそがしくなります。昨日は、滋賀県の神慈秀明会のボランティアの皆様の支援を得て、「木ッ木の森」の枯れ枝掃除をすることができました。お蔭様です、ありがとうございました。

燭台製作

冬期間の仕事と言えば、鍛冶工房での燭台製作がある。かれこれ10年程になる。鋼板や丸棒,角材やパイプを熱してハンマーで叩く。いわゆる鍛造と云う方法でパーツを作っていって溶接で接合して形を作る。その後、熱処理をして蜜蝋でコーティングする、それを磨き上げ、黒光りした味わいのある燭台に仕上げるのである。

今年のデザインは今までとは違い、単純なフォルムの中に力強さが感じられる本格派、玄人受けのするような作品となった。これに蜜蝋キャンドルを灯し、その炎の揺らめきを見つめていると遠い昔のことが懐かしく思い起こされる。

昨日17日は、阪神大震災から20年という節目を迎えた、竹灯籠に灯をともし、手を合わせる姿がメディアで繰り返し紹介されていました。20年たった今でも大切な人を失った悲しみは変わらないと話す女性・・・・。何年経とうが悲しみは癒えることはない、遺族の悲しみや苦しみを改めて知ると共に、その中でも懸命に日々の生活を送っている人達に、東日本大震災の被災者の20年後を重ねてしまい、思い出すことで故人をいとおしむことが出来るようになっていて欲しいと願わずにおられませんでした。

修理最終日

修理4日目もペンキ塗りで一日が終わってしまいました。昨日、アクリル板が届かず完成が今日にずれ込んでしまいました。

朝11時頃、アクリル板を宮古まで取りに行った港さんが来て早速仕事に取り掛かりました。電話BOX本体の三面のサイズに合わせアクリル板を切断し、嵌め込んでいきます。周りを桟で固定し午前中は終了いたしました。

午後には、遠野まごころネットの5人が駆けつけ取り付けた桟にペンキ塗りをするという具合で、戦力アップした作業は手分けして進みました。しかし、この日午後の気温はどんどん下がり手も足も冷たく、鼻水も垂れっぱなしでした。完成した時点での寒暖計は-4度を指していました。

本当にボランティアの皆さんには感謝しています。これ程の厳しい条件の中で復元した「風の電話」。使用してくれる皆さんにもその想いは必ず伝わると思います。そして一日でも早いグリーフワークからの回復を願って止みません。

また、「風の電話倒壊」に全国からお見舞いを寄せて下さった皆さんにも大変ご心配をおかけ致しました、お陰さまで完全復旧することが出来ました。ブログ上ですが改めて御礼を述べさせて頂きます。ありがとうございました。

修理3日目

風の電話修理も、残す作業はアクリル板はめ込み前の塗装と屋根の割れたスレートの交換だけとなった。

修理3日目の今日は、新しく作った扉とBOX本体の塗装、ペンキ塗りです。

風もあまりなく、何とか一人でもいけそうです。まず全体にサンドペーパをかけ塗装の剥げた部分を取り除き正面を滑らかにします。しかし、これが大変な作業であり、また仕上がりの出来ばえに影響する大事な作業です。ペンキはムラをなくすため2度塗りをしました。したがって出来ばえは皆さんのはげましに答えられるものになったと思います。

どうぞ今度来た時に笑ってやって下さい。

今回の事件で、全国の皆様方より修理の募金をしたいとの問い合わせが多くありましたがボランティアの皆様のお陰さまで、僅かな材料代で済みそうですのでどうか心配なさらないようお願いいたします。尚、ベルガーディア鯨山では活動支援金の協力をお願いしています。

銀行口座:ゆうちょ銀行
店  番:838
口座番号:1938776 (普通預金)
名  義:ベルガーディア鯨山 佐々木 格(ササキ イタル)